200. 村雲江

<無銘:郷義弘(名物:村雲江)>

室町時代

郷義弘 作

・重美認定日 1934.12.20

・重文指定日 1952.03.29

・現在 個人蔵(大阪)

 

越中郷義弘作と極めの刀で、

本阿弥光徳にが江州から取り出し太閤であった豊臣秀吉の目に入れたところ

波紋の沸が「村雲のようだ」と言ったことからこの名がついた。

 

享保名物帳」の原本には載っておらず、

後世に追加の部として記載されたものとみられている。

 

豊臣秀吉の所有からいつの頃からか、加賀前田家に伝来しており

1702.04.02に加賀前田4代目・綱紀が会津新藤五と長光の太刀とともに

5代目将軍・綱吉に献上された。(江戸幕府の公式史書徳川実紀」より)

 

その後、綱吉の寵臣・柳沢吉保に与えられた。

 

1871年4月に10本1束、12文ほどで売りに出されていたのを

新発田藩士・窪田平兵衛が購入し、本阿弥家に鑑定に出したところ

村雲江と判明した。

 

1887年頃、大審院評定官・伊藤悌治に250円(500~700万円)で売られた。

 

悌治の死後、刀剣鑑定士・高木復氏が入手したが、

その後、政治運動家・内田良平氏の手に渡り、

知り合いであった実業家・瀬戸保太郎氏の所有となった。

 

1934年の重美認定時には、保太郎氏の所有であったが、

1942年には、中島飛行機2代目社長・中島喜代一氏の所有となっており

(喜代一氏は、戦後赤羽刀の保護に尽力した人物で、三日月宗近や亀甲貞宗などの国宝級の刀を所有していた。)

1952年の重文指定時には、島田和昌氏の所有となっている。

1961年に日本美術刀剣協会が出版した「正宗とその一門」では

田口儀之助氏の所有と記されている。

 

そして現在は、大阪県の個人所有となっている。

 

198. 一文字則宗

 

鎌倉初期に備前国で活躍した福岡一文字の祖にあたる刀工

 

後鳥羽上皇に集められた12人の御番鍛冶の1人で、

則宗は、1月(正月)を担当した

 

則宗は「菊一文字則宗」として多く知られているが、

実際に則宗の刀に菊花紋を刻んだものはなく

後鳥羽上皇による菊花紋を刻んだ刀「菊御作」と混同され

則宗の刀が大衆に認識されてしまったのではないかといわれている。

 

新選組を題材にした小説などで、「菊一文字」は

沖田総司の愛刀として描かれることが多いが、

室町時代にはすでに則宗の刀は高級品であり、

江戸時代には「大名差し」として稀に贈答されるほどで、

則宗の刀は新選組一隊士に持てる代物ではなかったため、

事実ではないとみられている。

 

現存する「則宗」銘刀は、

<革包太刀(笹丸)則宗ノ銘アリ/ 名物:二ツ名銘則宗> 

重要文化財指定

愛宕神社所蔵(京都国立博物館寄託)

 

<太刀 銘:則宗

重要文化財指定

岡山県立博物館所蔵

 

<太刀 銘:則宗> 徳川5代目将軍・綱吉由来

・国宝指定

日枝神社所蔵

196. 泛塵

<金象嵌銘:泛塵 真田左衛門帯之>

 

室町時代

・宇多国次 作

・現在 所在不明

 

鎌倉後期に大和の宇陀郡より越中に移住した古入道国光を祖とする宇多派の1人。

 

真田幸村の佩刀として知られているが、

1615年・大阪夏の陣にて幸村が戦死した後に

幸村が14年過ごしたという紀州高野山より売りに出された。

 

江戸後期の幕末には、紀州藩士の野呂某が所有していたが、

それ以前の来歴も、以降の来歴もわかっておらず

現在も所在不明。

 

茎には金象嵌で「泛塵 真田左衛門帯之」と刻まれており

堀川国広によって磨上げられたとも刻まれている。

194. 大千鳥十文字槍

 

千鳥十文字槍とは、比較的太い湾曲した刃が穂から左右上向きに

十文字の形になっている槍の一種。

 

十文字の刃が上向きになっているのが、

千鳥が飛び立つように羽を広げているように見えるためこの名がついた。

 

「日本で有数な兵」と評される真田幸村の愛槍として知られ

武功を上げたものに与えられる朱色に装飾した「朱槍」だったといわれている。

 

幸村が振るっていた大千鳥十文字は、柄の部分が失われているが

穂先のみが、長野市にある真田宝物館に所蔵されている。

192. 五月雨江

 <刀 無銘:義弘(名物:五月雨江)>

南北朝時代

郷義弘 作

・重文指定日 1939.05.27

徳川美術館 所蔵

享保名物帳 記載

 

越中国郷義弘によって極められた刀で

五月雨の時期に本阿弥家にて極められたためこの名がついた。

 

本阿弥家より取り出され、義弘によって極め直された本刀を黒田長政が買い求めた。

1629.03.10に長政が死去しその遺物として、徳川家2代目将軍・秀忠に献上された。

 

1629.04.23に加賀の前田光高が3代目将軍・家光に元服した際に秀忠より拝領した。

1639.12.25に家光の養女・阿知姫が光高に輿入れした際、光高の父・利常より家光へ献上された。

 

1939.09.28の尾張徳川光友と家光の息女・千代姫の婚礼の引出物として家光より、

江戸城白書院にて、光友は本刀と後藤藤四郎を拝領した。

1667年9月に広橋権大納言忠幸の息女との婚礼を祝し、子・綱誠へ贈られた。

 

1699.06.05に綱誠が死去しその遺物として、

1699.07.25に5代目将軍・綱吉に献上された。

以降、将軍徳川家に伝来した。

 

1944年3月に徳川宗家17代目当主・家正より、徳川美術館に寄贈された。

190. 太閤左文字

<短刀 銘:左 筑州住(号:聚楽・太閤左文字)>

南北朝時代

・左(筑州住左)作

・重美認定日 1933.07.25

・重文指定日 1934.01.30

・国宝指定日 1952.11.22

・ふくやま美術館 所蔵

 

相州正宗十哲の1人、左文字によって打たれた短刀で

昭和後期より豊臣秀吉の蔵刀である太閤御物であったためこの名がついた。

秀吉より、徳川家康に贈られ、子・秀忠が差料としていたが、

その後、浜松藩井上正就へ下賜され、井上家に伝来した。

 

1929年(昭和4年)頃に行われた井上家の入札にて長尾よね氏の所有となった。

戦後の長尾家の没落に伴い手放された本刀を青山孝吉氏が買い取り

 

1969年以降に小松安弘氏の所有となり

2007年に江雪左文字などと共に「小松コレクション」としてふくやま美術館に寄託された。

2018年11月に安弘氏の遺志にて福山市に寄贈され、

2020年にはふくやま美術館の所蔵となっている。

 

細川家:永青文庫 所蔵組

 

細川家は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家であり、

本姓は源氏で、清和源氏・足利家の支流である。

 

<肥後細川家>

1. 藤孝(丹後宮津城主)

山内一豊より「小夜左文字」を譲渡される

 

2. 忠興(初代小倉藩主)

「歌仙兼定」の持ち主であり名の由来にもなった

元より所持していた「篭手切江」が稲葉丹後守正勝に贈られた。

古今伝授の相伝と共に「古今伝授の太刀」が烏丸光広に贈られた。

1581.04.12の茶会にて「地蔵行平」が明智光秀に贈られた。

 

3. 忠利(初代熊本藩主)

大飢饉による資金繰りの為「小夜左文字」が売却される

稲葉正利より「篭手切江」が贈られた

 

5. 綱利(3代熊本藩主)

「歌仙兼定」が家老・柏原定常(定道?)に拝領された

「篭手切江」が稲葉正往の老中就任の祝いとして贈る

 

16. 護立(細川家16代当主:2代熊本藩主・護久の子)

細川家の宝物を所蔵する「永青文庫」を設立した

持ち主を転々としていた「歌仙兼定」を買い戻した