180. 山鳥毛

<太刀 無銘:一文字(号:山鳥毛)>

鎌倉時代

福岡一文字 作

・重美認定日 1937.12.24

・重文指定日 1940.05.30

・国宝指定日 1952.03.29

備前長船刀剣博物館 所蔵

 

備前の刀工・福岡一文字の作とされるが、長尾家の伝来は長船兼光が打ったともされている。(「双林寺伝記」に<兼光(号:山焼亡)>とある。)

諸説あるが、刃紋が山鳥の産毛を並べたように細やかな模様にちなんで名付けられた。

(上杉家の伝来では「遠山の夕べの山焼けの景色に似ている」ため、山焼亡と呼ばれていたといわれている。)

 

1556年10月に上杉謙信が上州(群馬)へ出馬した際、白井城主・長尾憲景より贈られた。

謙信の跡を継いだ景勝は、本刀を手書きの刀剣名簿である

上杉景勝公御手選三十五腰」の1つとして記載した。

 

以降、御家名物として米沢上杉家に伝わった。

 

1881年明治天皇の山形行幸の際に、高木長光などと共に、陳列された。

 

1948年に米沢上杉家15代当主・憲章より、岡山県の岡野多郎松氏に譲渡された。

1997年に多郎松氏より、岡山県立博物館に寄託された。

 

2020.03.22に岡山県瀬戸内市クラウドファンディングにて集めた基金で購入した。

 

178. 松井江

<刀 朱銘:義弘 本阿(花押)光常(名物:松井江)>

南北朝時代

郷義弘 作

・重美認定日 1935.12.18

・重文指定日 1954.03.20

・佐野美術館 所蔵

享保名物帳

 

越中の刀工・郷義弘極めの刀で、本阿弥光常によって朱銘が入れられた。

細川幽斎からその子・忠興の重臣で豊後杵築城主・松井康之が所持していたため名付けられた。

 

松井家は、足利将軍家に代々仕えた幕臣の家系で、細川家とは沼田家を通じて、縁戚関係にある。

その後、康之は藤孝(幽斎)と共に織田信長に仕えたのち、細川家臣となった。

 

経緯は不明だが、本刀は徳川将軍家に渡り、

1685年3月に6代目・綱吉の娘婿である紀州徳川家3代目・綱教に下賜された。

その際に、本阿弥家に鑑定に出され、金200枚の折り紙が付けられ朱銘が入れられた。

 

細川家が肥後に入国し、幕府の命令によって八代城主という資格として入り、

1632年に康之の子・興長が、江戸城に代替わりの朱印状をもらいに行った際に、

お礼として、本刀を献上したのではないかといわれている。

 

以降、紀州徳川家に伝来し、

1933年11月の紀州徳川家の売立にて、2390圓で落札された。

 

1935年に重要美術品として、伊藤平左衛門名義で認定された。

 

1954年に重要文化財として、権藤尚一名義で指定された。

 

1961年の「正宗とその一門」では、佐野隆一氏名義で出品された。

現在、佐野氏が所有していた宝物を保管する佐野美術館に所蔵されている。

 

松井江の鞘は、松井家に伝来し、松井文庫にて所蔵されている。

176. 源清麿

 

江戸後期に、江戸を拠点に活躍した刀工「江戸三作」の1人、源清磨が打った刀の総称。

 

四谷に居を構えていたため「四谷正宗」とまで呼ばれていた。

 

本名は、山浦環。初めは「正行」で、次に「秀寿」と銘打っていた。

「山浦環」銘も確認されている。

 

兄の真雄と共に、河村寿隆に作刀を学んでいた。

 

江戸に出て、軍学者・窪田清音のもとで武士として修練を積んでいたが、

刀工・清麿としての腕前を惜しみ、1842年に100振ほどの武器講を依頼されたが、完遂前に自害した。

 

 

近藤勇の愛刀・長曽祢虎徹は、清麿によって打たれた写しだとされている。

174. 水心子正秀

 

江戸後期に、江戸を拠点に活躍した刀工「江戸三作」の1人、水心子正秀が打った刀の総称。

 

南北朝-室町初期頃の古刀を理想とし、その再現に生涯を費やし

様々な刀工に入門して、備前伝、相州伝を中心に五力伝を研究したという。

 

各地で失われつつあった古刀の鍛刀法を収集し纏め、著書を十数冊も出版したため

歴史的貢献度も高い。

 

「新々刀の祖」とも呼ばれ、弟子の数は100を超えるともいわれている。

 

正秀は、津田越前守助広の涛乱刀の写しより作刀を始め、初期は華麗な涛乱刃が多くみられるが、世の乱れより、古刀の回帰を目指すようになり、古刀期最強といわれる備前刀に傾倒していったとされる。

 

東京の宗福寺に正秀と正次のお墓がある。(正次は三代目の水心子である。)

 

 

172. 桑名江

<金象嵌銘:義弘 本阿(花押)(光徳) 本多美濃守所持(名物:桑名江)>

南北朝時代

郷義弘 作

・重美認定日 1934.07.31

・重文指定日 1937.05.25

京都国立博物館 所蔵

享保名物帳

 

郷義弘に打たれた刀で大磨上無銘だが、本阿弥光徳により極められた。

伊勢桑名2代目藩主・本多忠政(忠勝の長男)の所持だったため、この名が付いた。

 

1610年頃、鷹狩りをしていた際にある農家で神棚に祀られていたこの刀に出会ったといわれている。

その後、本多家の手に渡り、本阿弥家に鑑定に出され、埋忠寿斎に磨上げと金象嵌を入れさせた。

 

1665年2月には、本阿弥光温により、金300枚の折り紙が付けられ

以降、11代目三河岡崎藩本多家に戦後まで伝来した。

 

1961年の「正宗とその一門」では、宮崎富次郎所持で出品された。

 

 

 

170. 北谷菜切

<青貝微塵塗腰刀拵 刀身無銘(号:北谷菜切)>

室町時代

・作者不明

・重文指定日 2002.06.26

・国宝指定日 2006.06.09

那覇市歴史博物館 所蔵

 

琉球王家、尚家伝来の宝剣の1つ。

古く北谷間切の家に伝わったとみられるが、詳細は不明。

 

無銘で作者は不明だが、刀身は15世紀ごろの作とみられ、拵えは16-17世紀の作だとみられている。

 

拵えの全長は46.5㎝で、小柄と笄には琉球王府所蔵品の証である「天」と刻まれている。

刃長は23㎝で、使い込まれて摩耗しており、刃は切っ先部分にしか残っていない。

 

 

重要文化財は、北谷菜切としてではなく「琉球王家尚家伝来品」の1つとして指定された。

国宝指定もまた、歴史文書類を加えた「琉球国王尚家関係資料」の1つとして指定された。

 

 

北谷町にあった水田地帯北谷田圃との交換話や、北谷の農婦が触れてもいないのに、

赤子の首を斬ってしまい、証拠に持っていた包丁をヤギにかざすと、ヤギの首が落ち、無罪となった。その包丁を打ち直したのが本刀であるともいわれている。

 

168. 肥前忠広

 

1650年頃の江戸前期に、肥前佐賀藩士だった肥前忠広が打った刀の総称。

 

刀剣乱舞肥前忠広は、

元は坂本家に伝わる家宝の1つであり、とても高価であったとされる。

 

1862年3月に坂本龍馬が土佐脱藩の際に、家から持ち出し、外装を売ったといわれる。

 

後に、武市半平太などを経て、岡田以蔵に渡ったといわれている。

 

1862年8月、岡田以蔵が京都にて、尊王志士・本間精一郎を暗殺した際に本刀は折れた。

 

 

その後、土佐勤王党の1人、平井収二郎によって断片を短刀に直したという説と、

1863年6月の収二郎の切腹後、井原応輔の手に渡ったが、1865年2月に応輔は殺され、本刀も行方不明になった。)

 

本刀は、武市から借りた刀で南海太郎朝尊に依頼し、脇差に直させた説がある。

(1865.02.25に「以蔵の折れた刀を朝尊に依頼し、脇差に直させた」という内容の書簡がある。)