29. 骨喰藤四郎
・鎌倉時代
・粟田口藤四郎吉光 作
・重文指定日 1925.04.24
・豊国神社(京都市)所有
・京都国立博物館 寄託
・享保名物帳(焼失の部)
<作者>
吉光が打った薙刀で、時期は不明だが戦国期に脇差に磨り上げられた。
<名前の由来>
戯れで斬る真似をしただけで相手の骨を砕いたという逸話より名付けられたとされる。
<来歴>
諸説あり特定には至っていないが、
「大友興廃記」によると1336年に大友氏時が九州へ落ち延びた足利尊氏への加勢の誓いとして贈ったとされ、以降、足利家に伝わった。
1568年・永禄の変にて暗殺された足利義輝から松永久秀が分捕ったといわれている。
その後、話を聞きつけた九州探題・大友宗麟が元々の持ち主であると主張し、返還を申し出て、買い戻したとされる。
1585年に宗麟の嗣子・義統より豊臣秀吉が召し上げた。
:秀吉に渡った時はもう既に脇差に磨り上げられていた。
:秀吉公御物となり、「一之箱」に入れられるなど重宝されていた。
1615年・大阪夏の陣の大阪城落城の後、町人が堀から見つけ本阿弥に持ち込み、光室が徳川家に献上したとみられる。
:1614年・大阪冬の陣の際に秀吉の子・秀頼より武勲をあげた木村重成に下賜されたが、重成は夏の陣にて討ち死に、本刀は井伊家の家来に分捕られ、本阿弥家に持ち込まれたなどという説もある。
1657年・明暦の大火での江戸城炎上と共に焼身となるが、徳川将軍家の召し抱えであった3代目越前康継によって焼き直され、その後は紀州徳川家に伝来した。
1869年7月に徳川宗家に返還され、1889年に16代目当主・家達より金百円と共に豊国神社に寄付された。
:豊国神社は家康によって取り潰されていたが明治天皇のご沙汰によって1886年に再建が決まり、国営だった為、骨喰藤四郎は国有となった。
1926年に豊国神社に下賜された。
1615年の大阪城落城の後、将軍・秀忠が入手し徳川家の蔵となった際に
初代康継によって焼ける前の忠実な写しが打たれており、現在東京国立博物館に所蔵されている。