51. 包丁藤四郎

包丁藤四郎は名物の刀と、重要美術品に認定されている刀の2本存在する。

 

<短刀 銘:吉光(名物:包丁藤四郎)>

鎌倉時代

・粟田口藤四郎吉光

享保名物帳(焼失の部)

 

江州多賀城主・多賀豊後守高忠は京都所司代として令名のあった人だが、

料理にも精通しており、忠高に恥をかかせようとした人物が

鶴の首に鉄棒を仕込んでいたが、それを察した忠高は腰に差していた本刀で

鶴の首を鉄の棒ごと断ち切ったという逸話からこの名が付いた。

その後、堺の商人が所持していたのを鳥養宗慶が買い取り、

子息の与兵衛宗精に伝わった。

それを豊臣秀吉が召し上げ、上杉景勝に拝領された後、

景勝より徳川将軍・秀忠に献上された。

その後、紀州徳川家・頼宣に下賜されたが、再び将軍家に献上された。

徳川将軍家の「一之箱」の納められ、御腰物帳6番目に記されるなど重宝された。

1657年・明暦の大火の江戸城炎上と共に焼失した。

 

<庖丁吉光>

鎌倉時代

・粟田口藤四郎吉光

・重美認定日 1941.09.24

徳川美術館

 

粟田口吉光が打った短刀の中で秋田と同じく短い部類に入るため「庖丁」と呼ばれた。

元は、大谷吉継が所持していたが、1600年・関ヶ原の戦いで討たれ、徳川家康の所持となる。

家康の死後、尾張徳川家に形見分けとして徳川義直に渡り、

明治維新後も同家に伝来し続け、現在は徳川黎明会が所有している。