178. 松井江
<刀 朱銘:義弘 本阿(花押)光常(名物:松井江)>
・郷義弘 作
・重美認定日 1935.12.18
・重文指定日 1954.03.20
・佐野美術館 所蔵
・享保名物帳
越中の刀工・郷義弘極めの刀で、本阿弥光常によって朱銘が入れられた。
細川幽斎からその子・忠興の重臣で豊後杵築城主・松井康之が所持していたため名付けられた。
松井家は、足利将軍家に代々仕えた幕臣の家系で、細川家とは沼田家を通じて、縁戚関係にある。
その後、康之は藤孝(幽斎)と共に織田信長に仕えたのち、細川家臣となった。
経緯は不明だが、本刀は徳川将軍家に渡り、
1685年3月に6代目・綱吉の娘婿である紀州徳川家3代目・綱教に下賜された。
その際に、本阿弥家に鑑定に出され、金200枚の折り紙が付けられ朱銘が入れられた。
細川家が肥後に入国し、幕府の命令によって八代城主という資格として入り、
1632年に康之の子・興長が、江戸城に代替わりの朱印状をもらいに行った際に、
お礼として、本刀を献上したのではないかといわれている。
以降、紀州徳川家に伝来し、
1933年11月の紀州徳川家の売立にて、2390圓で落札された。
1935年に重要美術品として、伊藤平左衛門名義で認定された。
1954年に重要文化財として、権藤尚一名義で指定された。
1961年の「正宗とその一門」では、佐野隆一氏名義で出品された。
現在、佐野氏が所有していた宝物を保管する佐野美術館に所蔵されている。
松井江の鞘は、松井家に伝来し、松井文庫にて所蔵されている。
174. 水心子正秀
江戸後期に、江戸を拠点に活躍した刀工「江戸三作」の1人、水心子正秀が打った刀の総称。
南北朝-室町初期頃の古刀を理想とし、その再現に生涯を費やし
様々な刀工に入門して、備前伝、相州伝を中心に五力伝を研究したという。
各地で失われつつあった古刀の鍛刀法を収集し纏め、著書を十数冊も出版したため
歴史的貢献度も高い。
「新々刀の祖」とも呼ばれ、弟子の数は100を超えるともいわれている。
正秀は、津田越前守助広の涛乱刀の写しより作刀を始め、初期は華麗な涛乱刃が多くみられるが、世の乱れより、古刀の回帰を目指すようになり、古刀期最強といわれる備前刀に傾倒していったとされる。
東京の宗福寺に正秀と正次のお墓がある。(正次は三代目の水心子である。)
172. 桑名江
<金象嵌銘:義弘 本阿(花押)(光徳) 本多美濃守所持(名物:桑名江)>
・郷義弘 作
・重美認定日 1934.07.31
・重文指定日 1937.05.25
・京都国立博物館 所蔵
・享保名物帳
郷義弘に打たれた刀で大磨上無銘だが、本阿弥光徳により極められた。
伊勢桑名2代目藩主・本多忠政(忠勝の長男)の所持だったため、この名が付いた。
1610年頃、鷹狩りをしていた際にある農家で神棚に祀られていたこの刀に出会ったといわれている。
その後、本多家の手に渡り、本阿弥家に鑑定に出され、埋忠寿斎に磨上げと金象嵌を入れさせた。
1665年2月には、本阿弥光温により、金300枚の折り紙が付けられ
1961年の「正宗とその一門」では、宮崎富次郎所持で出品された。
170. 北谷菜切
<青貝微塵塗腰刀拵 刀身無銘(号:北谷菜切)>
・室町時代?
・作者不明
・重文指定日 2002.06.26
・国宝指定日 2006.06.09
・那覇市歴史博物館 所蔵
琉球王家、尚家伝来の宝剣の1つ。
古く北谷間切の家に伝わったとみられるが、詳細は不明。
無銘で作者は不明だが、刀身は15世紀ごろの作とみられ、拵えは16-17世紀の作だとみられている。
拵えの全長は46.5㎝で、小柄と笄には琉球王府所蔵品の証である「天」と刻まれている。
刃長は23㎝で、使い込まれて摩耗しており、刃は切っ先部分にしか残っていない。
重要文化財は、北谷菜切としてではなく「琉球王家尚家伝来品」の1つとして指定された。
国宝指定もまた、歴史文書類を加えた「琉球国王尚家関係資料」の1つとして指定された。
北谷町にあった水田地帯北谷田圃との交換話や、北谷の農婦が触れてもいないのに、
赤子の首を斬ってしまい、証拠に持っていた包丁をヤギにかざすと、ヤギの首が落ち、無罪となった。その包丁を打ち直したのが本刀であるともいわれている。
168. 肥前忠広
1650年頃の江戸前期に、肥前佐賀藩士だった肥前忠広が打った刀の総称。
元は坂本家に伝わる家宝の1つであり、とても高価であったとされる。
1862年3月に坂本龍馬が土佐脱藩の際に、家から持ち出し、外装を売ったといわれる。
後に、武市半平太などを経て、岡田以蔵に渡ったといわれている。
1862年8月、岡田以蔵が京都にて、尊王志士・本間精一郎を暗殺した際に本刀は折れた。
その後、土佐勤王党の1人、平井収二郎によって断片を短刀に直したという説と、
(1863年6月の収二郎の切腹後、井原応輔の手に渡ったが、1865年2月に応輔は殺され、本刀も行方不明になった。)
本刀は、武市から借りた刀で南海太郎朝尊に依頼し、脇差に直させた説がある。
(1865.02.25に「以蔵の折れた刀を朝尊に依頼し、脇差に直させた」という内容の書簡がある。)
166. 南海太郎朝尊
江戸時代後期、1830-43年頃に活躍した
土佐で刀鍛冶一族だった森岡南海太郎朝尊が打った刀の総称。
朝尊は、著書を3冊書くほど好学の士であり、森岡家系図も作っており、尊良親王に発するという。
1852年6月「刀剣五行論」
...漢文で五行説の観点から刀剣について纏められている。
1857年「新刀銘集録」
...序文には錚々たる面々が著を寄せており、全国の刀工系譜や押形について独学で纏められている。
「宝剣奇談」
...古くより伝来する宝剣の故事や奇端妙語を集め、古書によって編纂した本だが、
発売はされなかったようである。
刀剣乱舞でモチーフになった南海太郎朝尊は、幕末土佐藩の土佐勤王党盟主であり、坂本龍馬の遠縁にあたる武市半平太が持っていた刀だが、来歴は不明。