:前田家所有組(前田育徳会)
加賀前田家藩祖・利家
→1595年頃、秀吉より「大典太光世」を拝領した。
初代・利長
→秀吉より「平野藤四郎」を拝領し、1605.06.28に徳川秀忠に献上した。
2代・利常
→1616年に直之より「前田藤四郎」が献上された。
(前田直之は利家の次男・利政の子で、召し上げられた際に献上したとみられる。)
→1617.05.13に秀忠より「平野藤四郎」を拝領した。
3代・光高
→1633.12.05に徳川家光より「信濃藤四郎」が贈られた。
1636年に酒井忠勝に売却した。
4代・綱紀
→1645年に家光より「愛染国俊」を拝領した。
14代・利嗣
16代・利建
→以降に「愛染国俊」が手放された。
<前田育徳会 所蔵刀>
13. 大典太光世(三池) 病魔を祓う霊刀。
足利家の重宝として伝来し、秀吉を経て、加賀前田家に伝わった。
39. 前田藤四郎(粟田口)享保名物帳に所載される名刀。
前田利政の愛刀であり、子・直之より、利常に献上された。
:東京国立博物館 所蔵組
3. 三日月宗近(三条)-三条宗近作 1992年寄贈。
足利家、豊臣秀吉、高台院、徳川家を経て、天下五剣として伝来した。
23. 鳴狐(粟田口)-粟田口国吉作 1992年寄贈。
石黒甚兵衛、館林秋元家に伝来した。
33. 厚藤四郎(粟田口)-粟田口吉光作 1938年購入。
足利家、一柳家、黒田家、豊臣家、毛利家、徳川家を経て、一柳家に戻る。
43. 博多藤四郎(粟田口)-粟田口吉光作 2016年購入。
筑前黒田家、豊前小笠原家に伝来し、刀剣博物館に所蔵されていた。
池田輝政の佩刀であったとして池田家に重宝として伝来した。
足利家、三好家、信長、家康、奥平信昌、松平家に伝来し、個人を転々とした。
楠木正成、豊臣家、徳川家を経たとされ、山田家より献上され明治天皇御物となる。
122. 獅子王 ー平安大和刀工作 1947年移管。
摂津源氏、但馬斎村家、家康、高家土岐家を経て、明治天皇に献上され御物となる。
142. 毛利藤四郎(粟田口)-粟田口吉光作 1947年移管。
毛利輝元の愛刀であり、毛利家、家康、池田家を経て、明治天皇に献上された。
188. 日光一文字
<太刀 無銘:福岡一文字(名物:日光一文字)>
・鎌倉時代
・福岡一文字 作
・重文指定日 1933.01.23
・国宝指定日 1952.03.29
・福岡市立博物館 所蔵
・享保名物帳
備前福岡一文字が打った太刀で無銘ながらも福岡一文字派の傑作といわれる。
日光権現(現在の日光二荒山神社)の宝刀であったことが名の由来。
1519.09.08・早雲の没日より前に、日光権現より小田原城主・北条早雲が申し受けた。
1590年の小田原討伐にて、黒田如水が和睦交渉の為に入城した際に、小田原4代目城主・氏政または、5代目・氏直より、「東鑑」の一部と白貝と共に贈られた。
その時、本刀の入れてあった葡萄模様蒔絵と黒漆塗りの刀箱も現存している。
以降、黒田家に伝来し、筑前福岡2代目藩主・忠文による、埋忠明寿への拵え注文状が現存している。
1978年に、黒田家14代目当主・長礼氏が亡くなり、氏の遺志により、黒田家伝来品が福岡市に寄贈された。
2019年に宮入法廣氏による写しが、日光二荒山神社に奉納された。
186. 治金丸
<黒漆脇差拵(号:治金丸)>
・室町時代(?)
・作者不明
・重文指定日 2002.06.26
・国宝指定日 2006.06.09
・那覇市歴史博物館 所蔵
琉球王国の王族・尚家に伝来した宝剣の1つ。
1522年に宮古島の豪族・仲宗根豊見親玄真が琉球王国第2尚氏王統、第3国王である
尚真王に献上されたとされる。(「球陽」より)
(尚家の「治金丸由来記」によると、1500年に真王が八重山諸島を平定したことを祝して、献上された。とある)
鍔と切羽が千代金丸とほぼ同じ意匠であることや千代金丸の鍔に「てかね丸」の文字が刻まれていることなどから、「千代金丸と治金丸は何処かで入れ替わった」という説がある。
184. 地蔵行平
<太刀 銘:行平作(名物:地蔵行平)>
・平安末ー平安初期
・豊後国行平 作
・享保名物帳(焼失の部)
豊後の刀工・行平によって打たれた太刀。
地蔵菩薩が彫られているために名付けられた。
足利家に伝来し、6代目・義教の所有のあと、北条氏綱へ渡り
その後、地蔵菩薩が彫られたとされている。
以降の来歴は不明だが、細川忠興の手に渡り、
1581.04.12の茶会にて、ガラシャの父である明智光秀に贈られ、
その後、徳川家に献上された。
以降、徳川家に伝来していたが、1657年の明暦の大火にて焼失した。
他にも、この号を持つ刀は複数存在し、
・豊後国行平 作
・重文指定日 1975.06.12
・東京国立博物館 所蔵
豊後の刀工・行平によって打たれた太刀で、1205年の銘が入れられている。
江戸-大正時代に存在した宮家・有栖川家に伝来し、
だが、親王は大正天皇の東宮時代の教育係である東宮輔導であったこともあり
、当時8歳の第3皇子・宣仁親王に高松宮の号を与えられると共に、
有栖川家の祭祀、邸宅などの財産を継承した。
<太刀 銘:行平作(号:地蔵行平)>
・鎌倉時代
・豊後国行平 作
・重文指定日 1941.07.03
・名古屋市博物館 所蔵
豊後の刀工・行平によって打たれた太刀。
徳川将軍家伝来とされているが、詳細は不明。
1995年に市内の刀剣収集家の遺品として、同博物館に寄贈された。
打ち直しの形跡もないため、名物帳に記載の刀ではないと思われる。
182. 古今伝授の太刀
<太刀 銘:豊後国行平作(号:古今伝授の太刀)>
・平安末期-鎌倉前期
・豊後国行平 作
・重文指定日 1934.01.30
・国宝指定日 1951.06.09
・永青文庫 所蔵
豊後の刀工・行平によって打たれた太刀
細川幽斎は足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、武芸に通じた武将として活躍する一方で、有職故実、能、茶の湯などに関しても当代1の文化人として高い教養を示し「古今伝授」の継承者であった。
*「古今伝授」の継承とは、「古今和歌集」の語句の解釈の秘伝を特定の人物に伝えることで、三条西実枝から幽斎、智仁天皇、後水尾上皇へと伝えられ、朝廷での御所伝授として受け継がれた。
細川家以前の来歴は不明だが、1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦として、
西軍に追い込まれた幽斎は籠城し2ヶ月耐えていたが、
「古今伝授」の断絶を恐れた朝廷が使いを送ったが幽斎は講和を拒否した。
だが、1603年に再び送られた勅使にて講和を受諾した幽斎は籠城をやめ、
身柄を丹羽亀山城に移し、弟子の5代目・烏丸光広に「古今伝授」を相伝した際に、
本刀も共に贈られた。
*烏丸光亨は、准大臣・烏丸光宣の長男の正二位大納言で、
当代の文化人とも多く交流を持ち、多才多芸の文化人として多くの逸話を持つ。
以降、藤原家の分流・烏丸家に伝来した。
1894年12月に光享より、藤原家末流の中山家25代目当主の次男・孝麿に譲られた。
1929.06.29の中山侯爵家の売立に出品され、11300圓で落札された。
その後、昭和初期頃に細川家16代目当主・護立により買い戻され、再び細川家の所有となった。
180. 山鳥毛
<太刀 無銘:一文字(号:山鳥毛)>
・鎌倉時代
・福岡一文字 作
・重美認定日 1937.12.24
・重文指定日 1940.05.30
・国宝指定日 1952.03.29
・備前長船刀剣博物館 所蔵
備前の刀工・福岡一文字の作とされるが、長尾家の伝来は長船兼光が打ったともされている。(「双林寺伝記」に<兼光(号:山焼亡)>とある。)
諸説あるが、刃紋が山鳥の産毛を並べたように細やかな模様にちなんで名付けられた。
(上杉家の伝来では「遠山の夕べの山焼けの景色に似ている」ため、山焼亡と呼ばれていたといわれている。)
1556年10月に上杉謙信が上州(群馬)へ出馬した際、白井城主・長尾憲景より贈られた。
謙信の跡を継いだ景勝は、本刀を手書きの刀剣名簿である
「上杉景勝公御手選三十五腰」の1つとして記載した。
以降、御家名物として米沢上杉家に伝わった。
1881年に明治天皇の山形行幸の際に、高木長光などと共に、陳列された。
1948年に米沢上杉家15代当主・憲章より、岡山県の岡野多郎松氏に譲渡された。
1997年に多郎松氏より、岡山県立博物館に寄託された。
2020.03.22に岡山県瀬戸内市がクラウドファンディングにて集めた基金で購入した。